18歳、宮崎の少年は料理人になるため故郷を飛び出した。
横浜中華街での修業、本場香港での挑戦、フランスへの誘い、1000人規模の
香港結婚式との遭遇、超一流ホテルの開業、挫折、どん底、そして料理長への復活――。
笑いあり、涙あり、失敗あり。
決して順風満帆ではなかった半世紀の料理人人生。
その道のりで出会った恩人たち、仲間たち、そして母への想い。
気が付けば香港は庭となり、料理長として多くのお客様を迎えるまでになった。
これは決して一人の料理人の成功物語ではない。
人とのご縁に支えられながら歩んだ、料理人の青春記録である。
第一章 18歳、宮崎から横浜へ
「回顧録を書いてみては」
僕が尊敬する先輩から、そんな言葉をいただいた。
正直なところ、
「面白いかなぁ?」
「興味ある人いるかなぁ?」
と思ったのだが、自分自身も当時を振り返りながら書いてみるのも悪くない。
なるべく自伝になり過ぎないように、自分がお世話になったお店を一軒ずつピックアップして、その時の経験や感じたことを、僕なりの視点で書いてみようと思う。
まぁ興味のある人は少ないと思いますが(笑)
約50年前からの話なので、記憶が鮮明ではない部分もあります。そのあたりは温かい目で読んでいただけたら嬉しいです
さて、まずは1977年――同發新館から。
1977年。
僕は宮崎の宮崎実業高校を卒業した。
卒業式は2月の後半。
就職先は兄の紹介で、横浜中華街の同發新館に決まっていた。
いつ来てくださいと言われた記憶はない。
たぶんお店も、
「まぁ4月くらいに来るだろう」
と思っていたのではないだろうか。
ところが僕は、
「1か月も宮崎にいて何をするんだろう?」
と思ってしまった。
早く働きたい。
早く横浜へ行ってみたい。
そんな気持ちが強かった。
兄に電話し横浜へ行っても良いか確認した。
そして2月28日。
僕は突然、
「かあちゃん、明日俺、横浜行くよ」
と言った。
かあちゃんはびっくりしていた。
かあちゃんは少し泣いていたと思う。
僕は母子家庭で育った。
兄はすでに東京へ出ていた。
そして僕まで家を出れば、かあちゃんは一人になる。
今の自分なら、その寂しさがよく分かる。
でも当時18歳だった僕は、
働かなければいけない。
そして何より東京や横浜という大都会に憧れていた。
だから行くしかなかった。
これが、最愛のかあちゃんとの最初の別れだった。
航空券は当時のスカイメイト。
空席があれば安く乗れるありがたい制度だった
無事に航空券が取れ、いよいよ出発の日。
僕は中学校時代の親友(その名は新名)にだけ、横浜へ行くことを伝えていた。
すると親友は、わざわざ宮崎空港まで見送りに来てくれた。
今考えても、心に残る良き親友である。
(現在は 逢う機会は少ないが交流があリ良き親友だ)
飛行機に乗り込み、窓側の席に座った。
ふと外を見ると、親友が手を振っている。
飛行機が動き始めても、ずっと手を振り続けている。
その姿を見た瞬間だった。
母との別れ。
親友との別れ。
生まれ育った宮崎との別れ。
いろんな思いが一気に込み上げてきた。
18歳の僕は、
「横浜へ行くぞ!」
と意気込んでいたはずなのに、
気がつけば涙が出ていた。
親友はきっと見えていなかっただろう。
でも飛行機の窓際で、一人こっそり泣いていた。
期待と寂しさの涙だったと思うが寂しさが勝っていた涙だったと思う。
そして飛行機は、憧れの大都会へ向かって飛び立った。
横浜中華街――。
18歳 これから僕の料理人としての人生が始まる
第二章 横浜中華街での衝撃と原点
「旨〜い! なんだこりゃ(笑)」
横浜中華街の同發新館で働き始めた18歳の僕は、毎日のように驚いていた。
目の前に並ぶのは、宮崎では見たこともない料理ばかり。
先輩の日本人コックさんや、本場香港から来た一流のコックさんたちが、毎日交代で賄いを作ってくれるのだ。
当時は景気も良く、賄いも「ほどほどの値段なら何でもあり」という時代。豪華な料理が次々と食卓に並び、僕は毎日その味を楽しみながら広東料理を学んでいった。
同發新館は麺料理を出さない店だった。
干し鮑、ふかひれ、熊の手――。
今ではなかなかお目にかかれない高級食材が当たり前のように目の前にあった。
そして、今振り返るともう一つ驚くことがある。
現在では料理長がメニューを書く店がほとんどだが、同發新館には「メニューを書く専門の黒服のお偉いさん」がいたのだ。
その方の字がとにかく凄かった。
達筆という言葉では足りないほど美しい。
まるで芸術作品のような文字でメニューを書き上げ、それを料理長へ渡す。そして料理長や各持ち場のコックさんたちが料理を作る。
まさに本場香港そのままのシステムだった。
18歳の僕は、その文字を見るだけで尊敬してしまった。
「字が上手いだけで、こんなに格好いいのか」
そんなことを本気で思っていた。
さて、当時の僕の仕事はというと――。
朝一番に出勤すると、まず鍋台の下にコークスを入れて火をつける。
今の若い人は知らないかもしれないが、まるで機関車の火室みたいなものだ(笑)。
これがなかなか火がつかない。
新聞紙を下に敷いて火をつけ、しゃがみ込んで「フーフー」と息を吹きかける。
毎朝の格闘である。
慣れてくると、少しずつ火付けの時間も短くなった。
若い僕は、それだけでも少し成長した気分になっていた(笑)。
その後は裏の部屋で延々と春巻きを巻く。
ひたすら巻く。
また巻く。
ま さ に 春巻の千本ノックや〜
先輩と遊んだ次の日に春巻を巻くと うとうとと眠くなる時もあった(笑)。
さらに大量のザーサイを薄切り機で切る作業。
そして大きな缶詰のタケノコを、一缶は細切り、一缶は薄切りにする。
毎日そんな作業を繰り返していた。
今思えば、あれだけ切っていれば包丁が上手くならないわけがない。
最初は包丁の使い方もぎこちなかったが、気が付けば随分上達していたと思う。
営業が始まると、板場で揃えられた材料を鍋場のコックさんへ渡し、完成した料理を料理用エレベーターへ入れたり、デシャップ台へ運んだりする。
忙しい時には足りない食材を探して、市場通りや中華街を走り回ることもあった。
そうして気が付けば、一日が終わる。
毎日が慌ただしかったが、不思議と充実していた。
当時の給料は8万円。
しかし中華街の市場通りに同發の寮があり、家賃は無料だった。
初任給をもらった時、僕は真っ先に郵便局へ向かった。
現金封筒に2万円を入れ、宮崎の母へ送った。
苦労ばかりかけてきた母に、少しでも恩返しがしたかった。
「何があっても毎月送ろう」
そう心に決めた。
ただし――
残りのお金は貯金せず全部使った(笑)。
そして足りなくなる。
すると同發の事務所へ行き、
「借用証 二万円」
と書いた紙を置いて前借りする。
これを毎月のように繰り返していた。
今考えると、実質4万円で生活していたようなものだ(笑)。
それでも若かったし仕事に行けば豪華な賄いがあるので何とかなると思っていた。
同發には、本当に素晴らしい先輩たちがいた。
後に東京全日空ホテルで右腕と呼ばれるほど活躍する先輩。
そして後年、僕をフランス・オペラ座近くの「ラーメンヒグマ」へ誘ってくれた先輩。
さらに忘れられないのが、静岡出身の少し変わった先輩だ。
ビートルズのLPレコードが発売されると、
一枚は聴く用。
一枚は保存用。
そしてもう一枚は「いつか値上がりしたら売る用」。
必ず三枚買うのである(笑)。
先輩の部屋へ遊びに行くと、レコードを聴かせてくれる。
しかし僕が少しでも触ろうものなら、
「触るな!」
と怒られる。
今思い出しても笑ってしまう。
そんな個性豊かな先輩たちに囲まれながら、18歳の僕は料理だけでなく、人との付き合い方や社会の厳しさ、そして楽しさも学んでいった。
同發新館で過ごした日々は、広東料理人としての原点であり、人生の大切な土台になったのである。
第三章 二十歳、プライドと母
二十歳になった。
成人式?
横浜に同じ年の友達なんて一人もいないし、わざわざ宮崎に帰る理由もない。
僕の中には昔から、妙に頑固な掟があった。「一流になるまでは、絶対に帰らない」。
そんな誓いを胸に、成人式は横浜でただひたすらに仕事をしていた。
二十歳という響きは大人っぽいが、実態はまだ四流にも満たない若造だ。
故郷の母には、電話もすることなく 仕送りという名の「生存確認」として毎月2万円を送りつづけた。
それが僕なりの、精一杯の「親孝行」だと思っていた。
だが、そんな僕のプライドを粉砕する一本の電話が、二十歳の夏にかかってきた。
「かあちゃんが癌で手術することになった」
嘘だろ。まだ一流どころか、四流にもなれていないんだぞ。兄貴も帰れず、手術室の待合室には僕がたった一人。
予定時間を2時間も過ぎた。無機質な手術室の冷たい扉の前で、僕は祈った。「頼むから、死なないでくれ」。ただそれだけを願って、ただひたすらに待った。
ようやく手術室のランプが消えた。
運ばれてくるストレッチャー。
僕は震える心臓を抑えながら、一番最初に確認した。
「顔の上に白い布はかかっていないか……」。
そこにいたのは、顔を歪めて「痛い、痛い……」と呻く、とびきり人間臭い母の顔だった。
「あ、生きてる」
安堵のあまり、へなへなと崩れ落ちそうになった。
手術が終わった後、執刀医の先生に呼び出された。
恐る恐る行くと、なんと先生は取り除いたばかりの癌を見せてくれたのだ。
「……え、これを見せるんですか?」
と心の中で突っ込んだが、早期発見のはずが、実物はあろうことかピンポン玉くらいの大きさがある。
その時、先生は僕にこう言った。
「君は、ここから生まれてきたんだよ」
……いや、先生!
現代の病院で、そんなロマンチック(?)かつ哲学的な解説をしてくれる医師がどこにいるだろうか。
笑いを堪えるので必死だったが、
その光景は今でも脳裏に焼きついている。
きっと先生は、ただの手術結果の報告じゃなく、「お母さんの命、無事に守れたよ!」と僕に伝えたかったんだと思う。
あの時の先生の不器用で温かい優しさに、僕は心から感謝している。
そんなあの日から、母はなんと再発もせず、奇跡的な回復力でピンピンしている。
あの夏の、僕のプライドが粉砕され、代わりに「命のつながり」を教わった、
嘘のような本当の話だ。
今振り返れば、これほど笑えて、泣けて、温かい二十歳の思い出は他にない。
第四章 横浜を離れ、新たな世界へ
香港最大の飲食チェーンMaxim’s Group姉妹店
日本初上陸・東京新橋「翠園酒家」へ
時は過ぎ、同發新館での修業生活にも少しずつ慣れてきた頃のこと。
ある日、先輩から声が掛かった。
「服部、お前も賄いを作れ。」
ついにその日が来たのである。
同發では交代制で賄いを担当するのだが、これがなかなか大変だった。
しかも一日二食。
朝起きてから寝るまで、
「今日は何を作ろうか。」
「昨日と同じじゃ面白くないな。」
「材料は何が使えるだろう。」
そんなことばかり考えていた。
今思えば、頭の八割くらいは賄いのことで埋まっていた気がする(笑)。
先輩たちからアドバイスをもらいながら、あれこれ工夫して作る賄い。
大変ではあったが、本当に勉強になった。
料理人にとって賄いは、毎日が実践練習なのである。
そして仕事の方でも、見習いながら揚げ物担当を任せてもらえるようになった。
ある日、上の方から聞かれた。
「服部、お前は前菜か、板場か、それとも揚げ物か。どこへ行きたい?」
僕は迷わず答えた。
「揚げ物をやりたいです。」
実は揚げ物担当の隣には、広東料理の花形とも言われる鍋担当がいる。
大きな中華鍋を振り、一瞬で料理を仕上げていく姿は本当に格好良かった。
僕は揚げ物をしながら、横目でその技術を盗み見していた。
いや、盗み見というよりガン見だった(笑)。
まずは揚げ物を覚える。
認められたら鍋を勉強させてもらう。
それが当時の流れだった。
しかし当時、日本人が鍋場まで上がるのは簡単ではなかった。
鍋場は香港や華僑の一流コックたちが守る、本場の世界だったからである。
だからこそ憧れた。
だからこそ挑戦したかった。
そんな頃、板場の長老だったホウさんがよく口にしていた言葉がある。
「同發は料理教室だ。」
そして続けてこう言った。
「仕事を覚えたら、もっと高く買ってくれる店へ行きなさい。」
今思うと実に面白い考え方である。
上が辞めるのを待つのではない。
人を押しのけるのでもない。
自分の腕を磨き、自分を評価してくれる場所へ行きなさい。
そんな教えだった。
料理人らしい、実に潔い考え方である。
僕は昔から人付き合いだけは悪くなかった。
先輩に誘われると、ほとんど断らない。
飲みに行こうと言われれば行く。
飯を食べに行こうと言われれば行く。
結果、お金はいつもなかった(笑)。
そんなある日、同じ寮に住んでいた先輩から声を掛けられた。
後に東京全日空ホテルで麥料理長の右腕と呼ばれるほど活躍する先輩である。
「服部、新橋に翠園って店ができたんだけど行かないか?」
僕は少し生意気にも聞いてみた。
「給料はいくらくらいですか?」
すると先輩はあっさり言った。
「12万円くらいかな。」
当時の僕の給料は8万円。
頭の中で計算するまでもなかった。
「お願いします!」
返事は速かった(笑)。
こうして僕は新しい世界へ飛び込むことになった。
1980年。
約3年間お世話になった同發新館。
広東料理の面白さ、奥深さ、そして料理人としての基本を教えてくれた大切な場所だった。
50年近く経った今でも横浜中華街を訪れると、必ず同發新館の前に立つ。
そして思う。
「あぁ、ここで育ててもらったんだなぁ。」
若かった自分の姿が浮かんでくる。
同發新館、本当にありがとうございました。
その素晴らしい土台を胸に、僕は東京・新橋の翠園酒家へ向かった。
ところが東京生活は、そう甘くなかった。
翠園には寮もあったのだが、僕は家賃の安い武蔵小金井にアパートを借りた。
交通費は出る。
しかし通勤が長い。
とにかく長い。
毎日、仕事を始める前から少し疲れていた(笑)。
そんなある日。
宮崎・実業高校時代の同級生二人から連絡があった。
「俺たち下北沢に住んでるけど、服部も来ればいいじゃないか。」
なんともありがたい話だった。
こうして和食の料理人だった同級生二人との三人暮らしが始まった。
しかも下北沢駅まで徒歩30秒。
今では夢のような立地である。
時間が合えば三人で銭湯へ行く。
湯船につかりながら料理の話をする。
将来の夢を語る。
そして笑う。
中華と和食。
ジャンルは違っても、同じ料理人の卵だった。
和食の友人の一人は、いつも大根の桂剥きの練習をしていた。
あまりに真剣なので、
「そのうち下北沢の八百屋の大根なくなるぞ。」
と笑ったこともあった。
今思えば、お金はなかった。
贅沢なんてできなかった。
でも夢と希望だけは、誰にも負けなかった気がする。
そして迎えた新橋。
そこは中国料理の激戦区だった。
日比谷通りには名店がずらりと並ぶ。
向かいには今も有名な中国飯店。
近くには王府、香港飯店、同發、四川飯店。
少し足を伸ばせば留園。
中国料理店が軒を連ねる一等地である。
その中で翠園酒家は、最も新しい店だった。
香港最大の飲食チェーンMaxim’s Groupの姉妹店。
期待も大きかった。
中華街で育った僕は、
「まぁ、ある程度はやれるだろう。」
そんな小さな自信も持っていた。
ところが――。
店に入った瞬間、その自信は見事に吹き飛んだ。
今まで見てきた中国料理店とは、まるで違う。
料理の考え方も、仕事の流れも、店の空気も何もかも違う。
僕は心の中で思った。
「なんだ、これは……。」
度肝を抜かれたのである。
第五章 広東語の飛び交う毎日
厨房に足を踏み入れた瞬間、思わずこう思った。
「えっ……ここは本当に日本なのか?」
そこには香港から来た現役バリバリの料理人たちが大勢いた。
厨房中に飛び交う広東語。
ガスコンロは唸りを上げ、換気扇は轟音を立てる。
その音に負けないように、皆が大声で話している。
最初は本気で怒鳴り合いでもしているのかと思った。(笑)
後になって知ったのだが、香港では小声で話すと
「何か悪口でも言っているのでは?」
と思われることがあるらしい。
だから、
「悪口なんて言ってませんよ!」
という意味も込めて、大きな声で話す文化があるそうだ。
もちろん……
悪口は小声で言うらしいが(笑)
厨房には香港人コックが7~8人、日本人コックも7~8人。
さらに香港人の女性スタッフが2~3人。
同發新館では日本語が飛び交っていたが、翠園酒家はまるで別世界だった。
ここでは日本語が脇役。
主役は広東語だった。
それだけで私は度肝を抜かれた。
そして私は、また一からのスタート。
「打荷(ダー・ホー)」と呼ばれる下積みの仕事から始まった。
せっかく中華街で修業を積んできたのに、また振り出しである。
だが不思議と悔しさはなかった。
それ以上に、
「もっと学びたい」
という気持ちの方が強かった。
周りから聞こえてくる言葉はチンプンカンプン。
料理を覚えるだけではない。
広東語まで覚えなければならない。
毎日が勉強だった。
しかし、その環境がたまらなく刺激的だった。
翠園酒家といえば飲茶が有名だった。
香港から来た点心師が作る本場の点心。
土曜日や日曜日になると、お客様の間をワゴンが走り回る。
湯気の立つ焼売。
透き通るような皮の蝦餃子。
スペアリブのトウチ蒸し。
鶏爪の蒸し物。
そして当時の私には見たことも聞いたこともないマニアックな点心の数々。
今では珍しくないスタイルだが、当時はとても斬新で、多くのお客様を魅了していた。
さらに新橋という土地柄もあり、扱う料理も豪華そのものだった。
仏跳牆スープ
伊勢海老料理。
魚の姿蒸し。
鮑料理。
香ばしく焼き上げた焼鴨。
中華街とは一味違う高級食材が、次々と厨房へ運び込まれてくる。
若かった私は、その光景を見るたびに胸を躍らせていた。
まさに別世界だった。
そして心の中で思った。
「ここなら、本物の広東料理を学べる。」
期待に胸を膨らませながら働き始めた。
そして一か月が過ぎ、翠園酒家での初給料日を迎えた。
余談だが、同發新館もそうだったが、当時は給料がすべて現金支給だった。
封筒を手にした瞬間は嬉しかった。
東京へ出てきて最初の給料である。
期待しながら中を確認した。
しかし、その直後——
私は思わず目を疑った。
「あれ……?」
もう一度見た。
そして、さらにもう一度見た。
「12万円の約束じゃなかったっけ……?」
期待と現実。
その差に、私は驚いた。
第六章 封筒の中身と香港への誘い
東京・新橋の翠園酒家で働き始めて、初めての給料日。
期待と不安を胸に給料袋を開けた僕は、思わず二度見した。
「あれ? 12万円のはずなのに……16万円入ってる!」
最初は本気で計算ミスかと思った。
「これは返さなきゃいけないお金なんじゃないか?」
そう思い、恐る恐る先輩に聞いてみると、
「それ、大入りだよ。」
と言われた。
翠園酒家には「大入り制度」というものがあり、確か1日の売上が180万円を超えると大入りが付き、売上が伸びればさらに金額も増えていく仕組みだった。
当時の翠園酒家は連日満席。
世の中はまさにバブル景気の真っ只中だった。
店内はいつも活気に満ち溢れ、お客様の笑顔と料理人たちの掛け声が飛び交っていた。
特に12月の忘年会シーズンは凄まじかった。
朝から晩まで走り回り、気が付けば一日が終わっている。
毎日が戦場のような忙しさだったが、その分、大入りも凄かった。
今思えば、大入りだけで10万円近く付いた月もあったような気がする。
若い料理人にとっては夢のような話だった。
「これだけ貰えれば助かる!」
そう思った私は、実家のかあちゃんへの仕送りを増額した。
若かった私なりの精一杯の親孝行である。
とはいえ、宮崎へ帰ることもなければ電話をすることもほとんどなかった。
今のように携帯電話もない時代。
銀行への振込履歴が、かあちゃんへの
「俺は元気でやってるよ」
という生存確認だったのかもしれない。
きっと通帳を見ながら安心してくれていたのだろう。
・・・とは言うものの、
残ったお金はほとんど全部使ってしまった(笑)。
若さとは実に恐ろしいものである。
貯金よりも好奇心。
将来よりも今。
財布の中身より夢のほうが大きかった。
そんな翠園酒家での日々の中、私は少しずつ広東語の勉強も始めていた。
そこで仲良くなったのが、焼き物・前菜担当の香港人料理人、
大老強(ダイローキョン)
だった。
ちなみに「大老(ダイロー)」とは広東語で「兄貴」という意味。
名前の「強(キョン)」と合わせて、皆から親しみを込めてダイローキョンと呼ばれていた。
ある日、そのダイローキョンが私に言った。
「服部、一緒に香港へ行くか?」
さらに続けて、
「うちに泊まればいいよ。」
そんな魅力的な誘いを断れるはずがない。
料理人になってからずっと憧れていた香港。
僕は二つ返事で答えた。
「行く!」
こうして僕はダイローキョンと二人で、人生初の香港へ向かうことになった。
飛行機が香港へ近づく。
すると窓の外の景色に驚いた。
住宅街のビル群へ向かって真っすぐ降下していくのである。
そう。
あの伝説の香港啓徳空港だ。
「うわぁ!近い!近い!近い!」
思わず声が出た。
窓の外を見ると、マンションのベランダが目の前を流れていく。
洗濯物を干しているお母さんの姿まで見えそうな距離だ。
「洗濯物が揺れてるのが見えるぞ(笑)」
今では考えられない光景だった。
そして初めて降り立った香港。
空港を出た瞬間から何もかもが違った。
街の熱気。
独特の匂い。
体にまとわりつく湿気。
空を埋め尽くすほどの看板。
そして絶え間なく飛び交う広東語。
まるで街全体が生き物のように動いていた。
だが僕を一番驚かせたのは、やはり食べ物だった。
食べても食べても美味しい。
見たこともない料理が次から次へと出てくる。
「なんだこれは!」
「うまい!」
「また違う!」
驚いては食べ、
食べては感動し、
感動してはまた食べる。
料理人としての好奇心は刺激されっぱなしだった。
まさに、
びっくり箱の中に、びっくりが入った、びっく箱や〜
それが僕にとっての香港だった。
この香港旅行が、その後の私の人生を大きく変えていくことになることを僕はまだ知らない。
第七章 いつまでの心の中で輝く街
ダイローキョンに誘われて実現した、人生初の香港旅行。
期間は一週間。
今振り返っても、この一週間が私の人生を大きく変えたと言っても過言ではない。
同行したのはダイローキョンと、その親戚のお兄ちゃん。
私はまだ広東語もろくに話せず、メニューを見ても分からない料理ばかりだった。
だから注文はすべてダイローキョン任せ。
私は黙って食べる係である(笑)。
しかし、それが良かった。
自分では絶対に頼まない料理が次々と運ばれてくる。
見たこともない料理。
聞いたこともない名前。
そして食べるたびに驚く美味しさ。
ま さ に 料理のシルクロードや〜。
ダイローキョンの実家でも食事を招待してもらった。
家族みんなで食卓を囲み、香港の家庭料理をご馳走になった。
レスランの料理とは違うが
食事はバランスが取れていてまごころをビンビン感じでとても美味しかった。
言葉は完璧には通じない。
それでも僕の片言の広東語とダイローキョンの片言の日本で充分通じた
観光といえば、当時の香港の定番コース。
海に浮かぶ豪華レストランJUMBO。
山頂から見る100万ドルの夜景。
そして船に乗って向かったランタオ島。
中でも私の記憶に強く残っているのがランタオ島だった。
大きな大仏の姿に圧倒されながら歩いていると、その左側にレストランがあった。
そこで食べた精進料理が忘れられない。
冬瓜と湯葉の煮込み。
焼きビーフン。
豆腐の酢豚風。
肉を使っていないのに驚くほど美味しい。
料理人だった私は、
「こんな表現方法もあるのか!」
と感動した。
ただ一つ 鮮明に覚えていることがある。
茶碗が欠けていた(笑)。
日本なら交換されそうだが、香港では誰も気にしていない。
そんな大らかさも香港らしかった。
そして帰り道。
階段の脇に小さな屋台があった。
そこで売られていたのが「豆腐花(タウフーファ)」というデザートだった。
大きな樽の中には、絹のようになめらかな豆腐。
それを生姜とキビ砂糖で作った温かい甘いスープに入れて食べる。
恐る恐る口に運んだ。
すると、
「うま〜!」
思わず声が出た。
優しい甘さ。
生姜の香り。
豆腐の滑らかな食感。
今でも鮮明に覚えている。
香港では杏仁豆腐よりも、この豆腐花の方が身近な存在だったように思う。
私にとっては衝撃の美味しさだった。
帰る頃には日も暮れ始めていた。
船はゆっくりと香港島へ向かう。
海風が心地良い。
そして目の前には香港の夜景。
宝石を散りばめたような光が海面に映り込み、キラキラと揺れている。
私はただ黙って見ていた。
今では高速船が主流になり、あの頃のようなゆっくり進む船旅はほとんど無い。
だからこそ、あの日見た景色は私の心の中で今も輝き続けている。
こうしてダイローキョンとの初めての香港旅行は大満足のうちに終わった。
しかし困ったことに、一度香港を知ってしまうと、また行きたくなるのである。
日本へ帰ると、私は格安ツアーを探し始めた。
そして年に一回、時には二回。
香港へ通うようになった。
そのうち知恵も付いてきた。
格安ツアーで参加しても、添乗員さんに少し心付けを渡し、
「食事は結構ですので自由行動で。」
などと言って、自分たちでレストラン巡りをしたりもした(笑)。
今思えば、かなり自由な旅行者だった。
お金は大金持ちではない。
しかし若い料理人としては十分だった。
なぜなら、
かあちゃんへの仕送りを済ませた残りは、ほぼ全部使っていたからである(笑)。
貯金は無かった。
だが後悔も無かった。
香港で見た景色。
香港で食べた料理。
香港で出会った人々。
その全てが、後の私の財産になったのだから。
今でも思う。
私に香港という素晴らしい世界を教えてくれたダイローキョンには感謝しかない。
ダイローキョンがオーストラリアに仕事で行った後も日本に来てくれて何回か会える機会があった。
そして、そんな出会いを与えてくれた翠園酒家。
本当に最高以上の店だった。
そして僕の青春真っ只中の時でもあった。
しかし楽しい日々にも終わりは来る。
私が愛した翠園酒家を去る時がやって来る。
第八章 夢のままでは終われない
翠園酒家での僕の仕事は、「打荷(ダー ホウ)」と呼ばれる見習いのポジションだった。
スープを取ったり、葱を切ったり、先輩たちの仕事を手伝ったり。
今思えば雑用のように見えるかもしれないが、その一つひとつが料理人としての土台になっていた。
その中でも僕が任されていた大切な仕事があった。
それは――麺打ちである。
当時の翠園酒家では、焼きそば用の麺を自家製で作っていた。
小麦粉に卵や塩を加え、機械でこねる。
そしてローラーに通し、最後に刃を入れて麺に仕上げる。
麺打ち場は屋上近くの階段脇。
夏は暑く、冬は寒い。
なかなか過酷な場所だった。
しかも麺作りは天気との勝負でもある。
晴れの日は生地が乾きやすく、卵や水分の調整を間違えるとバサバサになる。
逆に雨の日は湿気が多いため、卵の量を減らさないとベトベトになってしまう。
最初は本当に難しかった。
だが数年も続けると感覚で分かるようになる。
その頃にはローラーを回しながら漫画本まで読めるようになっていた(笑)。
人間、慣れるものである。
出来上がった麺はほぐして広げ、蒸し器で5〜6分蒸す。
その後、風通しの良い場所で冷まし、使う日に軽く茹でて準備完了。
注文が入ると、その麺を両面こんがり黄金色に焼き上げる。
海鮮あんかけ焼きそば。
牛肉とピーマンの細切りあんかけ焼きそば。
叉焼ともやし、黄ニラの焼きそば。
どれも絶品だった。
特に叉焼焼きそばは最高だ。
もやしと叉焼を炒め、少量のスープと特製醤油を加えて混ぜ合わせる。
最後に黄ニラを入れて香りを立たせる。
出来上がった瞬間の香りは今でも忘れられない。
書いているだけでよだれが出てきそうだ(笑)。
そして――
これはコックだけが味わえる特権だった。
焼きそば用の麺を蒸す前に少しだけ取り分ける。
それをさっと茹で、厨房でコトコト煮込まれている琥珀色に澄んだスープを使いラーメンスープを作る。とりたてスープなのでこれだけでも香り良く食をそそる
具は葱と黄ニラだけ。
たったそれだけ。
だが、これが信じられないほど旨かった。
超、超、超旨い。
本当に旨い。
僕の人生で食べたラーメンの中で間違いなくNo.1だと思う。
世の中には美味しいラーメンがたくさんある。
でも、あの一杯を超えるラーメンには今でも出会っていない。
それほど衝撃的な味だった。
さらに、ふかひれの下ごしらえも僕の担当だった。
翠園酒家では乾燥処理されたものではなく、生の尾びれふかひれを使っていた。
まず黒いふかひれを一晩お湯に浸ける。
翌日、指先で丁寧に黒い皮を剥がしていく。
気の遠くなるような作業だ。
その後、にんにくと生姜を加えた湯で30分ほど蒸し、臭みを抜く。
これを2〜3回繰り返す。
さらに一日中水にさらす。
そしてボウルに豚肉、鶏肉、胡椒粒、金華ハムを入れ、調味料とともに蒸し上げる。
ようやく下準備が完成するのだ。
18歳で横浜中華街に飛び込んだ一人の少年。
その少年が、いつの間にかここまでの仕事を任されるようになっていた。
少しだけ自信がついた。
少しだけ料理人らしくなれた気がした。
そして注文が入る。
そのふかひれに、豚肉、鶏肉、金華ハム、干し貝柱 陳皮などで何時間もかけて作られた超高級スープを注ぐ。
湯気とともに立ち上る香り。
何度見ても感動した。
だが、やはり鍋を振るのは香港から来た一流コックたちだった。
日本人コックは補助役。
それが当時の現実だった。
しかし僕は悔しいとは思わなかった。
むしろ憧れた。
鍋を振る姿。
炎を操る姿。
厨房を仕切る姿。
何もかもが格好良かった。
「僕もいつか、あの人たちのようになりたい。」
そう強く思った。
いや――
もっと正直に言えば、
「いつか追い越したい。」
そう思ったのである。
それは料理人になって初めて見つけた、本気の目標だった。
そしてそんなある日――
僕の人生を大きく変える一本の電話がかかってくる。
相手は、あの有名な周富徳さんだった。
第九章 未練と夢、現実
周富徳さん――。
当時の周さんはテレビや雑誌、マスコミに引っ張りだこの超有名人。日本でも香港でも知らない人はいないほどの存在で、たしか聘珍樓の顧問もされていたと思う。
そんな周さんから、ある日声を掛けられた。
「服部、一度会わないか?」
もちろん断る理由などない。
お会いして話を聞くと、
「東京の吉祥寺に聘珍樓がある。そこで働いてみないか?」
というお誘いだった。
私は迷った。
実は、それまで自分の進路を迷ったことがほとんどなかった。良いと思ったら即決。それが私の性格だった。
しかし、この時だけは違った。
翠園酒家にはまだ未練があった。
鍋のポジションには行けなかったが、毎日が刺激的で楽しかった。香港から来た一流の料理人たちに囲まれ、学ぶことだらけの日々だった。
それでも周さんは熱心に誘ってくださった。
さらに給料も上がるという。
若かった私は何日も悩み、そして決断した。
こうして18歳で料理人になった少年は、3軒目となる店、吉祥寺聘珍樓へ向かうことになった。
当時の吉祥寺聘珍樓は、近鉄百貨店の上層階にある高級レストランだった。
今では当たり前だが、あの頃はデパートに高級レストランが増え始めた時代だったように思う。
店はとにかく忙しかった。
厨房のコックさんたちは皆よく働き、そして良い人ばかりだった。
仕込みが多い日は、仕事が終わるのが夜中の2時、3時になることも珍しくない。
今なら驚かれるだろう。
だが当時の私は、不思議と嫌ではなかった。
人間関係も良く仕事が楽しかった。
また吉祥寺ということでいせやの焼き鳥もリーズナブルで美味かった(笑)
そしてそこには、台湾出身の料理長と、華僑の名コック・唐子庭さんがいた。
この唐さんとの出会いが、後に私の人生を大きく、大きく動かしていくことになる。
まだその時の私は知る由もなかったが――。
聘珍樓で働き始めて半年ほど経った頃だった。
突然、一本の電話がかかってきた。
相手は、以前お世話になった翠園酒家のNo.2の香港人コックさんだった。
「服部、戻ってこい。」
懐かしい声だった。
そして次の言葉に耳を疑った。
「鍋を振らせてやるから。」
一瞬、時間が止まった。
えっ?
本当に?
マジか――。
胸が高鳴った。
超うれしかった。
あの翠園酒家で鍋が振れる。
私にとって、それは夢だった。
いや、奇跡と言ってもいい。
しかし現実もあった。
聘珍樓に入ってまだ半年しか経っていない。
簡単には決められなかった。
そこで私は、いつも格好良く鍋を振っていた唐子庭さんに相談した。
唐さんは少しだけ考え、
「いい話じゃないか。」
そう言った。
そして、
「戻ってもいいんじゃないか。」
と一言。
長い説教もなければ難しい理屈もない。
だが、その短い言葉には私の気持ちを理解してくれている温かさがあった。
背中をそっと押してくれたのだ。
今思えば、この短い吉祥寺聘珍樓での出会いが、私の将来の運命を大きく変えることになる。
実は私は、この吉祥寺聘珍樓での勤務年数が短すぎて、履歴書に書いたことがほとんどない(笑)。
なんだか格好悪くて恥ずかしかったのだ。
だが今ならはっきり言える。
もし吉祥寺聘珍樓に行っていなかったら、今の私は確実に存在しない。
仕事の面でも、人との縁でも。
私の人生にとって、とても大切な店だった。
そして私は再び翠園酒家へ戻る。
憧れ続けた鍋の世界へ。
当時、翠園酒家で鍋を振る日本人はほとんどいなかったと思う。
給料も大幅に上がった。
夢が一つ叶った瞬間だった。
まずは鍋の横で揚げ物を担当しながら仕事を覚える。
料理長は材料を並べ、
「服部、作ってみろ。」
と次々に挑戦させてくれた。
だが香港の鍋は重い。
日本の中華鍋とは比べものにならないほど重い。
最初は腕も肩も悲鳴を上げた。
それでも毎日鍋を振り続けた。
少しずつ、少しずつ体が慣れていく。
夢に見た世界が、ようやく目の前に広がり始めていた。
しかし――。
香港人料理長から受けた教えは、私の想像をはるかに超えるものだった。
その言葉を聞いた瞬間、
私は思わず、
「えっ……」
と声を漏らしてしまったのである。
第十章 未だ守りきれない教え
香港の料理長は、やはり凄かった。
炒飯を作っても美味しい。
炒め物を作っても美味しい。
ふかひれを作っても美味しい。
何を食べても美味しい。
若かった僕は不思議で仕方がなかった。
「なぜ、こんなに安定して美味しいのだろう?」
もちろん僕も料理を作った後は味見をする。
「あれ?少し薄いかな?」
そう思えば調味料を足す。
また味見をする。
「今度はちょっと濃いかな?」
また調整する。
そして気が付くと……
どこへ向かっているのか分からなくなる(笑)。
ま さ に――
味のジャングルジムや〜!
いつの間にか迷宮に入込むのである。
そんな僕を見ていたのだろう。
ある日、香港の偉大な料理長が言った。
「服部、味見をするな。」
えっ?
味見をするな?
料理人なのに?
当時の僕には意味が分からなかった。
だが今思えば、とても深い言葉だった。
味というものは不思議なもので、その日の体調に左右される。
寝不足の日。
風邪気味の日。
疲れている日。
同じ料理を食べても感じ方が違う。
酢豚や海老マヨなら、あらかじめソースが決まっている。
後は揚げ加減さえ合えば大きく外れることはない。
だが炒め物や炒飯、ふかひれの餡かけ、アワビの煮込みは違う。
その都度、自分で味を決めなければならない。
さらにマニアックな話になるが、ふかひれやアワビの煮込みを仕上げる時の水溶き片栗粉。
これが実に奥深い。
お玉に残るスープの量と、水溶き片栗粉の量。
このバランスが少しでも狂うと、
料理の光沢が消える。
表面が凸凹になる。
味がぼやける。
高級料理ほど最後の一手が難しいのである。
そして広東料理は何よりも香りが命。
炒め過ぎれば火が入り過ぎる。
炒めが足りなければ香りが出ない。
ほんの数秒で料理の表情が変わる。
料理長はそんな世界を毎日生きていた。
そしてこう続けた。
「調味料の量を感覚で覚えろ。」
広東料理では塩や砂糖などをTスプーンで量って入れる。
毎日。
毎日。
毎日。
同じように。
身体に覚え込ませる。
だから味見に頼るな――
そういう意味だったのだと思う。
考えてみれば香港のコックさん達は、一日に50品以上の料理を作る。
もし毎回味見をしたらどうなるだろう。
仮に一回で塩分が0.1g舌につくとして、
50品で5g。
うがいをしても追いつかない(笑)。
それでも彼らの料理はどれも美味しい。
当時は理解できなかった。
でも今なら何となく分かる気がする。
とは言え――
今でも味見する時は多い(笑)。
香港料理長の教えは素晴らしい。
だが僕は未だに完璧には守れていない(笑)。
翠園酒家は、日本の会社とは少し違う世界だった。
いわゆる縦社会ではなく横社会。
料理長が頂点にいて、その下は横一列。
実力のある人間が認められる。
特に二番手の料理人は頭も良く、皆が一目置く存在だった。
だから厨房の雰囲気は意外なほどフレンドリーだった。
そして何より驚いたのが休みである。
今の感覚では信じられない話だ。
僕が入る前、先輩二人が料理長にこう言ったらしい。
「給料はいりません。半年休ませてください。」
普通なら即却下だろう。
ところが料理長は、
「いいよ。」
あっさり承諾した。
そして二人はシベリア鉄道に乗り、半年間ヨーロッパを旅したのである。
なんという自由な世界だ(笑)。
さらに僕が働いていた頃も、同期の友人が
「ヨーロッパに行きたいので三ヶ月休みます。」
と言って、本当に行ってしまった。
しかも帰ってきたら普通に復帰していた。
今思えば凄い会社だった。
それを見ていた僕は思った。
「ならば僕も行こう。」
世界を見てみたい。
中華街と香港しか知らない自分のままで終わりたくない。
そうして後輩と二人で、一ヶ月半の休みを取りヨーロッパへ行くことにした。
最初の21日間はツアー。
そして残り二週間は自由旅行。
問題は移動手段だった。
当時のヨーロッパ旅行者の憧れ、
ユーレイルパス。
これさえあればヨーロッパ中を列車で旅できる。
ところが困ったことがあった。
航空券を二週間延長できるかどうか分からないのである。
延長料金は一万円。
しかし飛行機の空席がなければ延長できない。
返事が来るのは出発の二日前。
もし先にユーレイルパスを買って延長できなければ大損だ。
だから延長の許可が出るまで待つことにした。
ところが――
ユーレイルパスを買える日がほぼ一日しかない(笑)。
確か新宿だったと思う。
出発直前。
延長OKの連絡が来た。
翌日、新宿へ飛んで行き、慌ててユーレイルパスを購入。
今思うと、
なんと慌ただしい無謀な計画だったのだろう(笑)。
若さとは恐ろしい。
そしてもう一つ問題があった。
資金である。
海外旅行にはお金がかかる。
今なら貯金してから行くのが普通だろう。
だが当時の僕は違った。
何とかなるだろう精神で生きていた(笑)。
しかも、その資金調達方法がまた凄い。
今これを書くと、
読者の皆さんは椅子から転げ落ちるかもしれない(笑)。
「そんな方法で行ったのか!」
と驚くと思う。
だが若い頃というのは、時々とんでもない発想をするのである。
答えは第十一章で
それでも一つだけ守っていたことがある。
どんな時でも、
かあちゃんへの送金だけは忘れなかった。
海外へ行こうが、
遊びに行こうが、
そこだけは変わらなかった。
今振り返ると、
それが唯一まともだったのかもしれない(笑)。
そして僕は、まだ見ぬヨーロッパへ向かった。
第十一章 欧州旅行と変わらぬ憧れ
旅費も何とか工面でき、いよいよ念願のヨーロッパへ出発する日がやって来た。
しかし、若者向け格安ツアーは甘くない(笑)。
フランスへ向かう途中、まずはシカゴで乗り換え。
ところが次の飛行機まで丸一日ある。
しっかりツアーで半日観光が組み込まれていた。
時は2月。
真冬のシカゴ。
気温はなんとマイナス19度。
「寒い」ではない。
顔が痛いのである(笑)。
僕は宮崎育ちで衝撃的な寒さだった。
それでも若さとは凄いもので、
「せっかく来たんだから見て回ろう!」
と元気いっぱい。
その後、アンカレッジを経由し、ようやくフランスへ到着した。
今回のヨーロッパ旅行には大きな目的が二つあった。
一つ目は、同發新館時代の先輩に会うこと。
先輩はパリのオペラ座近くにある「ヒグマ」というラーメン店で働いていた。
もう一つは、高校時代に山岳部だった僕の夢。
マッターホルンを見ること。
写真でしか見たことのない、あの憧れの山を自分の目で見てみたかったのである。
パリでは久しぶりに先輩と再会した。
異国の地で会う先輩の姿は、なんだか一段と格好良く見えた。
まずは「ヒグマ」でラーメンをご馳走になる。
遠いフランスで食べるラーメン。
これがまた妙に美味しい。
先輩曰くフランスは石灰水だから出汁を出すのに日本の2倍のガラの量が必要と教えてくれた。
そして先輩はベルサイユ宮殿へ連れて行ってくれた。
ただ僕はそこはそれほど興味はなかったが先輩の優しさに感謝だった(笑)
夕食はフランスのベトナム料理店へ。
正直なところ、
「フランスまで来てベトナム料理?」
と思った(笑)。
ところがこれが驚くほど美味しい。
先輩に聞くと、
「ベトナムは昔フランス領だったからね。」とのこと。
なるほど。
文化も料理も影響を受けているのだ。
旅に出ると、こういう発見が本当に面白い。
夜になると先輩の友人達とバーへ。
そこでまた衝撃を受ける。
当時の僕には珍しかったのだが、フランスにはオカマさん達が普通にいて、皆で楽しそうに笑っていた。
先輩も自然に会話している。
僕はというと、
「へぇ〜、フランスって凄いなぁ。」
と感心するばかり(笑)。
世界は広い。
中華街と香港しか知らなかった僕には、何もかもが新鮮だった。
その後はツアーで、
イギリス、
スペイン、
ギリシャ、
ドイツ、
スイス、
そしてイタリアへ。
どの国もそれぞれ個性があり面白かった。
そしてイタリアでツアーの仲間達と別れ、いよいよ後輩と二人だけのバックパッカー生活が始まった。
とは言っても、立派な計画などない。
駅へ行き、
インフォメーションで宿を紹介してもらい、
泊まる場所を決める。
そして街を歩く。
ただそれだけ(笑)。
今ならスマホ一つで何でも調べられるが、当時はそんな便利なものはない。
まさに行き当たりばったりの旅だった。
そして僕は念願だったスイスへ向かった。
目指すはマッターホルン。
ただツェルマットについたら雲っていた。
ここが宛のないバックパッカーの良いところ
じゃあツェルマットのユースホステルに3日滞在しようか
ユースホステルは色んな外国人がいて12〜13人部屋だった(笑)
そして上手くもないのにスキーウエアーを買ってスキーをしてマッターホルンが見えるのを待った。
そして2日目 初めてその姿を見た時の感動は今でも忘れない。
高校時代、山岳部だった少年が憧れ続けた山。
その山が目の前にあった。
しばらく何も言えなかった。
ただ見上げていた。
「ああ、本当に来たんだな。」
そんな気持ちだった。
その後はオーストリアやドイツを巡り、35日間のヨーロッパ旅行は幕を閉じた。
今振り返ると面白いことがある。
困った時は必ず中華料理店に入っていた(笑)。
イギリスでも。
スペインでも。
ドイツでも。
やっぱり中華料理。
メニューも読めるし安心する。
料理人は世界のどこへ行っても中華料理に助けられるらしい(笑)。
さて。
ここまで読んで、
「その旅費はどうしたの?」
と思った方もいるかもしれない。
では発表しよう。
皆さん、普通は海外旅行に行く時どうするだろうか。
海外旅行保険に入る。
これが普通である。
ところが僕は違った。
なんと――
今まで積み立てていた保険を解約して旅費にしたのである(笑)。
今考えると無謀にも程がある。
何かあったらどうするの?
本当にその通りだ。
自分でもそう思う(笑)。
若さとは恐ろしい。
そして旅を終えた僕達は翠園酒家へ復帰した。
すると皆が温かく迎えてくれた。
前例というのは凄いものである。
先輩達も旅から戻って復帰していたため、
「お帰り。」
という空気だった。
もちろんお土産も忘れない(笑)。
ヨーロッパの話も良い思い出だ。
だが僕の人生の中心はやはり中国料理だった。
それでもあの旅は間違いなく行って良かったと思う。
世界の広さを知った。
価値観が広がった。
そして料理人としての視野も広がった。
その後も僕は翠園酒家で修行の日々を送った。
香港の料理長は人脈がとても広かった。
ホテルやレストラン、企業からも声が掛かる。
そして料理長が行けない時は、
「服部、行ってこい。」
と言われるようになった。
仙台ホテルへ1ヶ月。
函館のホテルオークランドへ1ヶ月。
さらには名古屋のステーキあさくまへ試作の手伝い。
若い僕にとっては全てが勉強だった。
沢山の経験を積ませてもらったのである。
そんなある日。
パリで働く先輩が一次帰国で日本へ戻ってきた。
僕はフランスでお世話になったお礼も兼ねて会いに行った。
すると先輩が言った。
「服部、フランス来ないか?」
給料の話。
住む場所の話。
働く環境の話。
すべて説明してくれた。
後は僕が返事をするだけだった。
フランス。
格好いい。
海外で働く料理人。
正直、心は揺れた。
だが返事は保留にした。
なぜなら――
僕にはもう一つ大きな夢があったからだ。
「香港で働いてみたい。」
毎日憧れ続けた香港の料理人達。
その本場で自分は通用するのだろうか。
挑戦してみたい気持ちが強くなっていた。
そこで僕は翠園酒家の香港料理長と社長に相談することにした。
ダメならフランスへ行こうとの思いもあった。
第十二章 フランスか香港か
フランスの先輩には心から感謝を伝え、お話をお断りした。
それでも、パリのシャンゼリゼ通りを颯爽と歩く自分の姿を想像し、しばらく夢を見させていただいた(笑)。
そして僕は、香港の料理長と社長から
「香港へ勉強に行って来なさい」
とありがたい言葉をいただいた。
無事にビザも取得。
こうして僕の香港修業がスタートしたのである。
住まいは香港・湾仔。
香港最大の飲食グループ、美心集団(Maxim’s Group)系列の和食店「弁慶」の寮だった。
そこには日本人職人さんが二人。
右も左も分からない異国の地で、とても心強い存在だった。
修業先として案内されたのは、香港セントラルにある粤江春、翠園、北京樓、そしてコーズウェイベイにある美心皇宮大酒樓。
今思えば、いきなり香港を代表する超一流店ばかりで勉強させてもらえたのだから、本当に幸運だったと思う。
その中でも僕の度肝を抜いたのが、美心皇宮大酒樓だった。
「大きなレストランらしいよ」
と聞いていたので、それなりの規模を想像していた。
ところが実際に目の前に立った瞬間、
「えっ……これ本当にレストラン?」
と思わず声が出た。
とにかく広い。
1000名規模の結婚式や宴会が開ける巨大レストランだった。
1000人?
ちょっとした学校の運動会くらいの人数である(笑)。
厨房には点心部門、焼味部門、前菜部門、宴会部門などがあり、コックさんだけでも100人以上。
もはやレストランというより食品工場である。
さらに厨房の長さは体感で50メートル以上。
端から端まで歩くだけで軽い運動になる(笑)。
そんな巨大厨房の中に、日本人がたった一人。
当然目立つ。
「あの日本人は誰だ?」
と、あっという間に噂になった(笑)。
そして、さらに驚く出来事が待っていた。
運良く僕は1000名規模の結婚披露宴に遭遇したのである。
日本なら開始時間が近づくとお客様が集まり始める。
ところが香港は違った。
皆さんかなり早く来る。
そして何をするのかと思ったら……
麻雀である(笑)。
ジャラジャラ……
ジャラジャラ……
会場中から牌の音が響いてくる。
「ここは結婚式場なのか?雀荘なのか?」
本気でそう思った。
さらにお腹が空けば、
「ラーメンちょうだい!」
「点心ちょうだい!」
と普通に注文が入る。
厨房は結婚式前からフル回転である。
そして開宴時間が近づくと、それまで麻雀をしていたテーブルが一斉に宴会仕様へと変わる。
スタッフ総出でテーブルセット。
その速さと連携は見事だった。
だが、本当の見せ場はここからだった。
厨房では巨大な寸胴鍋で1000人分のスープを仕込む。
炒飯や炒め物になると、12台ほどの中華レンジの前にコックさん達がずらりと並ぶ。
そして一斉に鍋を振り始める。
香港では作り置きなど許されない。
出来立てでなければ、お客様はすぐに離れてしまう。
それほど香港の人達は料理に厳しいのである。
ゴォーーーッ!
炎が上がる。
ガン!ガン!ガン!
中華鍋の音が響く。
マイクから飛ぶ指示。
ホールスタッフの掛け声。
それら全てが一つのリズムとなって動いていた。
僕はただ呆然と立ち尽くしていた。
「これが香港なのか……」
初めて見た香港の宴会文化。
そのスケールは、日本での常識を軽々と吹き飛ばしてしまったのである。
そして、もう一つ忘れられないのが北京樓だった。
北京ダック専門の職人が次々とアヒルを仕上げていく。
その数を見て僕は思った。
「一日に何羽焼くんだろう……」
北京ダックは皮をパリッと仕上げるため、身と皮の間に空気を入れる工程がある。
日本なら一羽一羽丁寧に空気を入れる。
ところが香港は違った。
数が多すぎるのである。
すると職人さんが取り出したのは……
なんと自転車の空気入れ!
シュッシュッ!
シュッシュッシュッシュッ!
首の部分から次々と空気を送り込んでいく。
その姿を見た僕は思わず吹き出した。
ま る で 北京ダックの自転車屋だ〜
職人さんは流れ作業で次々と空気を入れていく。
初めて見た僕は開いた口に空気を入れられないよう思わず口を閉じた(笑)。
香港で見たもの、学んだもの、感じたもの。
その全てが新鮮で刺激的だった。
間違いなく香港での経験は、僕の料理人人生を大きく変えた。
そして数々の貴重な経験を胸に、僕は再び東京へ戻ることになるのである。
東京翠園酒家で経験を生かし鍋の仕事も少しづつ上達した頃香港の料理長が独立して香港から新しい料理長が来た。
気がつけば、途中で聘珍樓へ行った時期もあったが、翠園酒家で過ごした年月は12年にもなっていた。
18歳横浜中華街 同發新館スタートした少年も、いつの間にか中堅料理人になっていたのである。
そんなある日。
一人の懐かしい人物が店を訪ねて来た。
かつて一緒に汗を流した先輩だった。
久しぶりの再会。
しかし、その再会は単なる昔話では終わらなかった。
その日を境に、僕の人生は再び大きく動き始めるのである――。
第十三章 別れ、そして出会い
人生には忘れられない別れがある。
そして、その別れが思いもよらない出会いを連れてくることもある。
12年間お世話になった翠園酒家。
若造だった僕を育ててくれた場所。
失敗もした。
色んなことがありすぎた。
言葉では言い表せないほどの思い出が詰まっている。
50年以上経った今でも、感謝の気持ちは変わらない。
翠園酒家で過ごした日々は、間違いなく僕の青春そのものだった。
そんなある日、一人の懐かしい先輩が訪ねて来てくれた。
以前、一緒に働いた先輩である。
よう 服部元気か❢久しぶりの再会に話が弾んだ。
ところが先輩は、ただ昔話をしに来たわけではなかった。
「服部、一緒に来てくれないか?」
先輩はその頃、池袋サンシャインにある有名ホテルの料理長になっていた。
そして話してくれた内容は、僕の人生を大きく変えるものだった。
「1年後、横浜みなとみらいに新しいホテルができるんだ。」
「中国料理がメインレストランになる。」
今でも中国料理がメインのホテルは多くはないかもしれない。
しかし当時、ホテルと言えば洋食が主役。
中国料理がホテルの看板になるというのは業界でも大きな話題だった。
そのホテルの名は――
横浜グランドインターコンチネンタルホテル。
後に横浜のシンボルとなる、あのホテルである。
さらに驚いたことがあった。
中国料理の総料理長として決まっていたのが、
唐子庭さん。
なんと、僕が吉祥寺の聘珍樓で半年だけ働いていた頃の先輩だった。
不思議なものである。
人生は時々、思いもよらない形で人と人を再び結び付ける。
偶然なのか。
それとも運命なのか。
当時の僕には分からなかった。
しかし、その話を聞いた時、
「これは運命の縁だな」
と思った。
僕がみなとみらいにホテルを見に行った時は周りに観覧車しかなくホテルは半分も出来ていなかった
さらにホテルの準備は着々と進んでいた。
料理長が決まり、香港の名門ホテルからも続々とシェフが集められた。
香港ペニンシュラホテル。
香港ヒルトンホテル。
その他にも一流ホテルの料理長クラスが香港から来日することになっていた。
そんな中、最初に声を掛けてもらえたのが僕だった。
嬉しかった。
本当にありがたかった。
僕は迷わず答えた。
「お供させていただきます。」
こうして僕は12年間勤めた翠園酒家を退社することを決意した。
もちろん寂しさはあった。
だが、それ以上に新しい世界への期待が大きかった。
ホテルの開業まではまだ時間があった。
そこで僕は、ヨーロッパ旅行を一緒にした後輩と再び香港へ向かった。
香港には以前の修業時代に築いた人脈があった。
住まいも知人が快く受け入れてくれた。
そして今回は修業というより、
「さらに視野を広げる勉強の旅」
だった。
高級レストラン。
街角の屋台。
名店の厨房。
ありとあらゆる現場を見て回った。
前回の香港で築いた人脈が大いに役立ったのである。
若い頃の人付き合いは本当に大切だと、今でも思う。
そして帰国。
しかしホテル開業まではまだ少し時間があった。
そこで知人の紹介で、品川港南口近くの中国料理店で料理長としてアルバイトをすることになった。
料理長のアルバイト。
今考えるとなかなか面白い話である(笑)。
そして、いよいよその日がやって来た。
横浜グランドインターコンチネンタルホテル開業。
当初、僕は香港人シェフを除けば実質的な二番手として迎えられる予定だった。
ところが途中で事情が変わった。
唐さんをホテルへ紹介した業界の長老が、
「どうしても別の人を推薦したい」
と言ったのである。
唐さんは僕に聞いてくれた。
「服部、どうする?」
僕は少し考えて答えた。
「給料が同じなら大丈夫です。」
翠園酒家という横社会で育った僕らしい返事だったと思う(笑)。
肩書きより仕事。
それが当時の僕の考えだった。
もっとも――
給料は驚いた。
ホテルなので月給ではなく年収提示。
その金額を見た時は思わず目を疑った(笑)。
今思っても破格だったと思う。
後で聞いた話では、
唐さんが
「服部は絶対に取れ。いくら出しても取れ。」
と言ってくれていたらしい。
ありがたい話である。
もちろん金額は今でも企業秘密(笑)。
こうして僕は新しい世界へ足を踏み入れた。
街場の料理人からホテルの料理人へ。
そして横社会から縦社会へ。
そこで待っていたのは、今までとはまったく違う世界だった。
そして僕は再び、大きなカルチャーショックを受けることになる――。
そして人生初の大きな挫折
第十四章 挫折
いよいよ横浜グランドインターコンチネンタルホテルが開業した。
僕が所属したのは、中国料理レストラン
「驊騮(かりゅう)」
日本初の「中国料理がメインレストラン」のホテルとして大きな注目を集めていた。
香港から来たシェフは5人。
全員が日本初来日だった。
もちろん日本語はまったく分からない。
広東語が分かるのは料理長の唐さんだけ。
そして、なぜか僕(笑)。
翠園酒家や香港修業で覚えた広東語は決して上手ではなかった。
それでも香港人と話すには十分だった。
気が付けば通訳係までやっていた(笑)。
レストランはオープン直後から大盛況。
毎日が戦争だった。
「もう無理だ・・・」
そう思ったことが何度あったか分からない。
それでも香港人シェフ達との仕事は本当に楽しかった。
仕事が終われば一緒にご飯を食べる。
冗談を言い合う。
国は違っても同じ料理人。
自然と仲間になっていった。
ところが、問題は別のところにあった。
人間関係だった。
新規オープンの店というのは面白い。
誰もがその店で働くのは初めて。
だから経験豊富な料理人ほど、
「こうした方がいい」
「いや、こうあるべきだ」
と、それぞれの理想を持ち込む。
当然ぶつかる。
今思えば、新入社員達は大変だったと思う。
そして僕自身も戸惑っていた。
翠園酒家は横社会だった。
先輩後輩はあっても、比較的フラットな関係だった。
しかしホテルは違う。
完全な縦社会。
組織。
上下関係。
報告。
根回し。
料理以外のことがたくさんあった。
僕は料理は覚えてきた。
香港でも修業した。
経験も積んだ。
だが組織の中でどう振る舞うかは、何も分かっていなかった。
今思えば未熟だった。
特に当初二番手としていた近藤さんには、よく叱られた。
正直、何度もテンパった(笑)。
ところが不思議なものである。
ある日、
「服部さん、ちょっと飲みに行かない?」
と誘われた。
僕は付き合いの良い性格なので、
「行きましょう!」
となった。
それからほぼ毎日のように、仕事帰りに桜木町の居酒屋へ行った。
仕事の話。
卵焼きの話(笑)
スタッフの話。
将来の話。
くだらない世間話。
超細かい2番手近藤さん
超大雑把な僕
気が付けば二人で大笑いしていた。
最初は苦手だと思っていた人が、いつの間にか良き同志になっていた。
人生とは面白いものである。
だが、そこを乗り越えても次の壁が現れた。
僕は料理人としての経験はあった。
しかし社会人としての経験が足りなかった。
組織の中での立ち位置。
周囲への配慮。
伝え方。
任せ方。
守り方。
今まで学んでこなかった課題が次々と現れた。
そして僕は気付いた。
優しい唐さんにも迷惑を掛けている。
期待に応えられていない。
その思いが日に日に大きくなっていった。
気が付けば心が折れていた。
もがいた。
苦しんだ。
それでも三年近く踏ん張った。
しかし限界だった。
僕は横浜グランドインターコンチネンタルホテルを辞めた。
今まで辞める時は必ず次の職場が決まっていた。
だが今回は違う。
次は何もない。
本当に何もない。
ただ辞めた。
苦しかった。
正直、人生で一番苦しかったかもしれない。
毎日家で寝ていた。
何もする気が起きない。
起きてもまた寝る。
どうしたらいいのか分からない。
このまま死ぬまで寝ていよう。
本気でそう思った。
そんなある日。
電話が鳴った。
中華街時代から人脈の広い先輩だった。
電話に出ると、
「服部!何やってんだ!バカ!」
開口一番それだった(笑)。
僕は、
「すみません・・・」
しか言えなかった。
すると先輩は言った。
「厚木に行け!」
「ビブレの中に中国料理店がある。」
「とにかく働け!」
その言葉に救われた。
このままでは本当に駄目になる。
そう思った。
僕は厚木へ向かった。
その店は、後に「中華の鉄人」として有名になる 譚彦彬さんが顧問を務める店だった。
僕は心に決めた。
もう同じ失敗はしない。
何があっても料理長を支える。
その気持ちだけは誰にも負けない。
そうして再び厨房に立った。
人生は不思議なものだ。
どん底だと思っていた場所から、また新しい縁が生まれる。
そして一年ほど経ったある日。
ヘルプで来ていた一人の料理人から声を掛けられた。
「服部さん、ちょっと話があるんだけど・・・」
その一言が、再び僕の人生を大きく動かすことになる――。
第十五章 沈んだからこそ飛べる
どん底の先に見えた料理長への道
人生とは本当に不思議なものである。
あれほど苦しみ、
「もうこのまま死んでもいいかな・・・」
とまで思っていた僕に、
まさか数年後、
料理長の話が来るとは夢にも思わなかった。
厚木で働いていたある日のこと。
京王プラザホテルからヘルプに来ていた一人の料理人が声を掛けてくれた。
和栗さんだった。
後に東京ウェスティンホテル、大阪リッツ・カールトンホテル、そして東京ペニンシュラホテルで料理長を務めることになる凄い人である。
だが僕にとっては今でも大切な友人。
いや、
マブダチである(笑)。
その和栗さんが言った。
「服部さん、多摩センターの京王プラザホテルの料理長やりませんか?」
僕は耳を疑った。
「えっ?」
話を聞くと、多摩センターにある京王プラザホテルの香港料理長が帰国し、後任を探しているという。
そして僕の名前を挙げてくれたのだった。
ついに来た。
料理長の話である。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
ただ一つ問題があった。
普通なら
「給料はいくらですか?」
と聞くところだろう。
しかし当時の僕にそんな余裕はなかった(笑)。
どん底から這い上がってきたばかりだったからだ。
給料よりも、
もう一度勝負できる場所があることが嬉しかった。
こうして僕の
京王プラザホテルへの扉
が開いたのである。
今思えば人生は面白い。
あれほど苦しんだ時期があったからこそ、この話がよりありがたく感じた。
そして不思議なことに、
あの苦しみを経験してからというもの、
「もう怖いものはない」
と思えるようになっていた。
今でも人生で一番苦しかった時期はいつかと聞かれたら、
迷わずあの頃だと答える(笑)。
それ以来僕は鋼鉄の度胸がついた(笑)
まずは新宿京王プラザホテルで一年間の研修。
そしてその後、
京王プラザホテル多摩へ出向料理長として赴任することになった。
初めての料理長。
期待もあった。
不安もあった。
料理を作るだけではない。
メニュー開発。
原価管理。
スタッフ教育。
会議。
ホテル全体との連携。
和食や洋食との調整。
サービス部門との打ち合わせ。
総支配人への報告。
やることは山のようにあった。
そして研修先の新宿京王プラザホテルもまた凄かった。
香港で見た美心皇宮大酒樓も巨大だったが、
京王プラザの厨房も負けていない。
もしかすると日本一だったかもしれない。
宴会の売上も桁違いだった。
普通の宴会で数千万円。
中国料理だけの宴会で数億円。
新宿の料理長から聞いた時は、
「えっ?今なんて言いました?」
と聞き返したくなった(笑)。
まさに別世界だった。
しかも京王プラザホテルは、
周富徳さんや譚彦彬さんも腕を振るった名門ホテル。
そこで学べることは本当に多かった。
そして多摩へ。
料理長としての毎日が始まった。
幸いなことに人間関係にも恵まれた。
和食の親方とはすぐ仲良くなった。
その理由は麻雀である(笑)。
僕がいつも負ける。
親方はいつも勝つ。
親方はニコニコ。
僕は苦笑い。
これが最高のコミュニケーションになった(笑)。
洋食の総料理長も素晴らしい方だった。
「服部さん、困ったことがあったら何でも言ってね。」
そう声を掛けてくれた。
本当にありがたかった。
そして何より、
ホテルのトップである総支配人が僕の理解者になってくれた。
お金の掛かる話以外は、
ほとんど応援してくれた(笑)。
そんな総支配人から聞いた話で、今でも忘れられない話がある。
「子象の足輪」の話だ。
小さな象は足に鎖を付けられる。
何度引っ張っても切れない。
だから諦める。
しかし大人の象になれば、その鎖など簡単に切れる。
それでも象は逃げない。
小さい頃の失敗を覚えているからだ。
総支配人は言った。
「皆さんも同じです。」
「本当はもっと飛べるのに、自分で限界を作っていませんか?」
「現状にしがみつかず挑戦してください。」
その言葉は強く心に残った。
料理長として五年。
売上も伸びた。
スタッフとの関係も良かった。
充実した毎日だった。
しかし――
そんな順調な日々の中で、
僕にはどうしても気になることが出てきたのである。
第十六章 ありがとう
京王プラザホテル多摩で料理長として働き始めて5年ほどが過ぎていた。
仕事は充実していた。
人にも恵まれた。
お客様にも恵まれた。
しかし、一つだけ気になることがあった。
給料である(笑)。
京王プラザホテルの給料が低いわけではない。
むしろ当時としては十分だった。
ただ、どうしても比べてしまう。
横浜グランドインターコンチネンタルホテル時代の給料を。
あれは今思い返しても破格だった(笑)。
そんなある日。
東京全日空ホテルの麥料理長のところへ挨拶に伺った。
雑談の中で、
「服部、給料どうだ?」
と聞かれた。
僕は正直に答えた。
「もう少しあると嬉しいんですが(笑)」
その場はそれで終わった。
ところが一年後。
突然、麥料理長から呼び出された。
「服部、給料上げてやるから店を移る気はあるか?」
突然の話だった。
僕は反射的に答えた。
「給料が上がるならお願いします!」
今思えば大胆だった(笑)。
しかし相手は麥料理長。
偉大な先輩である。
緊張してしまい、どこの店なのかも聞かずに返事をしてしまった。
すると麥料理長は、
「よし、分かった。」
と一言。
そして帰り際、恐る恐る聞いた。
「あの……場所はどこですか?」
返ってきた答えは、
「名古屋。」
さらに、
「全日空ホテルグランコートだ。」
その瞬間、僕の目は点になった(笑)。
こうして名古屋行きが決まったのである。
その後、総支配人や部長が試食に来られ、正式に赴任が決定。
しかもまたしても新規オープン。
今度は料理長としてだった。
厨房機材の選定。
スタッフの採用。
売上予算。
料理原価。
メニュー作り。
価格設定。
会議、会議、また会議。
ホテルを一つ立ち上げるというのは、想像を超える仕事量だった。
正直、分からないことだらけだった。
それでも横浜グランドインターコンチネンタルホテルで味わった苦しさと挫折があった。
あの経験が僕に、
「鋼の心臓」
を与えてくれていた(笑)。
だから多少のことでは動じなかった。
そして全日空ホテルグランコート名古屋は無事オープンした。
39歳11か月。
僕は全日空グランコート名古屋の料理長となった。
そこから気が付けば21年。
いや、京王プラザ時代を合わせれば26年近い料理長人生だった。
振り返れば、本当に多くのことを学んだ。
特に感じたのは、
料理が美味しいだけではお客様は増えないということ。
また来たいと思っていただく工夫。
顧客を増やす努力。
イベント。
メニュー開発。
料理長の仕事は料理を作るだけではなかった。
中でも思い出深いのが、
「服部料理長と行く香港ツアー」
である。
気が付けば香港は僕の庭のような存在になっていた(笑)。
修業時代にお世話になった美心集団のお店もコースに組み込み、少しでも恩返しができればと思った。
お客様にも大変喜んでいただけた。
本当に嬉しかった。
グランコート名古屋では多くの著名人にもご来店いただいた。
皇室の方にも何度も足を運んでいただいた。
名前は控えるが、料理人としてこれ以上ないほど光栄な経験をさせていただいた。
そんな料理長人生も終わりに近づいていた。
そして定年前のある日。
宮崎から一本の電話が入った。
母の訃報だった。
98歳。
若い頃、子宮癌で余命を心配したこともあった。
それから約40年。
本当に長生きしてくれた。
ありがとう。
その言葉しか浮かばなかった。
18歳で宮崎を離れてから、ずっと仕送りを続けてきた。
決して親孝行な息子ではなかったかもしれない。
それでも、
「少しでも楽をさせてあげたい」
その気持ちだけは持ち続けてきた。
そして母が旅立ったことで、その送金も終わった。
どこかぽっかり穴が空いたような気持ちだった。
宮崎から飛び出した18歳の少年。
横浜中華街。
東京。
香港。
横浜。
多摩。
そして名古屋。
気が付けば夢中で走り続けていた。
失敗もした。
怒られもした。
悔し泣きしたこともあった。
笑ったこともあった。
たくさんの人に助けられた。
そして、たくさんのご縁に恵まれた。
もし人生をもう一度やり直せるとしたら、
鋼の心臓をもって生まれたい(笑)
そしてついに定年退職の日を迎えた。
普通ならここで物語は終わる。
「お疲れ様でした」
そう言って幕が下りるはずだった。
しかし――
僕の人生はそこで終わらなかった。
定年はゴールではなかったのである。
むしろ新しいスタートだった。
18歳で始まった料理人人生。
その続きが、まさか定年後に待っているとは思ってもいなかった。
人生とは本当に面白い。
だからこそ今、こうして振り返ることができる。
長い回顧録を読んでくださった皆様へ。
心から感謝申し上げます。
そして――
物語は「完結」したが、
僕の人生は、まだ続いている。
完結