料理人50年、その歩みを語る 第一章

今年、料理人として50年を迎える翠宮料理長が、これまでの軌跡を回顧録につづりました。

第一章 宮崎~横浜への旅立ち

「回顧録を書いてみては」

僕が尊敬する先輩から、そんな言葉をいただいた。

正直なところ、

「面白いかなぁ?」

「興味ある人いるかなぁ?」

と思ったのだが、自分自身も当時を振り返りながら書いてみるのも悪くない。

なるべく自伝になり過ぎないように、自分がお世話になったお店を一軒ずつピックアップして、その時の経験や感じたことを、僕なりの視点で書いてみようと思う。

まぁ興味のある人は少ないと思いますが(笑)

約50年前からの話なので、記憶が鮮明ではない部分もあります。そのあたりは温かい目で読んでいただけたら嬉しいです。

さて、まずは1977年――同發新館から。

1977年。

僕は宮崎の宮崎実業高校を卒業した。

卒業式は2月の後半。

就職先は兄の紹介で、横浜中華街の同發新館に決まっていた。

いつ来てくださいと言われた記憶はない。

たぶんお店も、

「まぁ4月くらいに来るだろう」

と思っていたのではないだろうか。

ところが僕は、

「1か月も宮崎にいて何をするんだろう?」

と思ってしまった。

早く働きたい。

早く横浜へ行ってみたい。

そんな気持ちが強かった。

兄に電話し横浜へ行っても良いか確認した。

そして2月28日。

僕は突然、

「かあちゃん、明日俺、横浜行くよ」

と言った。

かあちゃんはびっくりしていた。

かあちゃんは少し泣いていたと思う。

僕は母子家庭で育った。

兄はすでに東京へ出ていた。

そして僕まで家を出れば、かあちゃんは一人になる。

今の自分なら、その寂しさがよく分かる。

でも当時18歳だった僕は、

働かなければいけない。

そして何より東京や横浜という大都会に憧れていた。

だから行くしかなかった。

これが、最愛のかあちゃんとの最初の別れだった。

航空券は当時のスカイメイト。

空席があれば安く乗れるありがたい制度だった。

無事に航空券が取れ、いよいよ出発の日。

僕は中学校時代の親友(その名は新名)にだけ、横浜へ行くことを伝えていた。

すると親友は、わざわざ宮崎空港まで見送りに来てくれた。

今考えても、心に残る良き親友である。

(現在は 逢う機会は少ないが交流があリ良き親友だ)

飛行機に乗り込み、窓側の席に座った。

ふと外を見ると、親友が手を振っている。

飛行機が動き始めても、ずっと手を振り続けている。

その姿を見た瞬間だった。

母との別れ。

親友との別れ。

生まれ育った宮崎との別れ。

いろんな思いが一気に込み上げてきた。

18歳の僕は、

「横浜へ行くぞ!」

と意気込んでいたはずなのに、

気がつけば涙が出ていた。

親友はきっと見えていなかっただろう。

でも飛行機の窓際で、一人こっそり泣いていた。

期待と寂しさの涙だったと思うが寂しさが勝っていた涙だったと思う。

そして飛行機は、憧れの大都会へ向かって飛び立った。

横浜中華街――。

18歳 これから僕の料理人としての人生が始まる。

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